2011年7月24日日曜日

檜原村ツーリング

都会の暑さから逃れることを目的に東京都最西部の檜原村に出かけた。
【檜原村】
東京都最西部の村。島嶼部を除けば東京都唯一の村である。調べてみると、結構歴史のある地域のようだ。
平安時代には、橘姓を名乗る集団が北秋川沿いに定住していたそうだ。

また、北秋川と南秋川を隔てる浅間尾根には、とある高貴な人物の墓所があるとの口伝が小岩集落には伝えられているが、これについて安和の変との関係を指摘する意見もある。それによると、安和の変の際に追っ手がかかった源連(みなもとのつらぬ)は東国に逃亡して橘高安にかくまわれ、後に為平親王の第4子為定親王(源為定)を呼び寄せたとされる。小岩集落にある「王子が城」「タメサダヤカタ」の古地名がその理由として挙げられている。
江戸時代の檜原は天領となり、代官が置かれた。五日市から浅間尾根を通って甲斐に抜ける道は甲州中道と呼ばれ、甲州道中の裏街道として盛んに利用された。本宿の橘橋には番所が置かれ、甲州中道を通る者を監視した。この番所は「口留の番所」と称した。
檜原は代官の下で23の組に分けられていた。村民の代表者として世襲制の名主がおり、また各組にはそれぞれ年寄と百姓代が置かれていて(合計で46人)、住民による自治が行われていた。主な産業は炭焼きや林業であった。檜原で焼かれた木炭は五日市に運ばれて売却された。1789年に檜原からこの販路で出荷された木炭は135163俵であった。江戸の街作りや火事によって檜原の木材需要は増え、林業も盛んになった。当初、檜原には木挽き師や杣師がいなかったので、青梅から技術が導入された。この頃の檜原の山林はモミ、クリ、ケヤキ、ツガなどの原生林であった。切り出された木材は筏師によって秋川、多摩川を流され、江戸市中へと出荷された。

ここを訪れたのは、浅間尾根MTBツーリング以来である。
今日はロードバイクだ。早朝0514錦糸町初の電車に乗り込み、0700頃には武蔵五日市に到着した。準備を整え、スタートだ。まずは、都民の森に向かってハンドルを切る。今日の予定は特には無かったが、風張峠〜奥多摩湖〜松姫峠あるいは鶴峠を経て藤野に向かうつもりであった。
天候は曇。外気温は25℃程度か?とても気持ちよく走ることのできる一日になりそうだ。檜原街道を走り、村役場を通り過ぎると橘橋だ。この橋の名称も平安時代に定住していた橘氏と関係があるのだろうか?
橘橋の交差点を左に折れ、風張峠へと向かう。この辺で、風張峠への練習に向かうローディーの集団が何組みかいた。この時期は、やはり朝のうちに走るに限るのか。
いつもは、数馬で一服入れるが、今日は何となく休憩なしで都民の森まで行こうと決めていた。ペースはゆっくりめだが、数馬のあたりで心拍は160を超えた。体調が良いのか、心拍数の割には呼吸は楽だった。そろそろ、奥多摩周遊道路の旧料金所が見えてきた。勾配は大したことはないが、遥か上方にガードレールが見えると「あそこまで登るのか?」と少々凹む。
長くダラダラとした道を上り、信号が見えると都民の森入口だ。多くのバイク、ロードバイクが休憩している。さらに武蔵五日市からのバスが到着するとハイカーがどっと降りてくる。ふと三頭山の方向に目を向けると黒い雲がかかっている。さらに、西の方では遠雷も聞こえるではないか。そういや、午後から雷雨の可能性があると言っていた。時計に目をやるとまだ9時半。ちと早すぎはしないか?と思いつつ、雨具もないので武蔵五日市に引き返そう。
外気温は18℃と少し肌寒いくらいだ。同じ道を下るのも芸がないので、風張林道から北秋川を目指すことにした。落石の多い舗装林道を慎重に下ろう。遠くには新宿の高層ビル群も見えるが、上空はどんよりと曇っていた。
  標高800mを超える斜面に集落があるのには驚かされた。きっと昔、どこからか落ちてきた人々の末裔なのだろうか。円高で安い外材が入ってきている現在、林業だけで生活することができるのだろうか。
途中、雨乞いの滝の看板があったので立ち寄ってみた。小さな滝だが、マイナスイオンで癒された。

さらに下り、本宿で豆乳ソフトで補給。
武蔵五日市で喜正を買い込み帰宅した。
本日の走行
走行距離:65km
獲得標高:980m